優生手術被害当事者の声
参議院議員会館で行われた6月6日の院内集会は、議員の皆様をはじめ、部屋に入りきれないほどの方々にお越しいただきました。これほどたくさんの方が強制不妊手術被害当事者の方々の声に耳を傾けてくださること、弁護団として心強く思います。当日お越しになれなかった方のために、ここに概要を記します。(注:わかりやすさ重視のため発言を割愛したり順序を入れ替えた部分がありますが、ご了承ください。)
1.開会あいさつ(弁護団共同代表:新里弁護士)
本年1月30日に宮城県の60代の女性が全国で初めての提訴を行いました。優生保護法が廃止になったのは1996年、被害が放置されてやっと提訴に結びついたのがその22年後ということです。
宮城県の訴訟については第一回の期日が開かれ、国は請求に対して棄却だけを求めていましたが、本日、私どもの主張に対して「争う」という詳細な認否の書面が提出されました。つまり、国は今の時点となっても「争う」という姿勢だということで、私たちはこれに対してきちんと戦っていく必要があります。ただ、その中でも早期の解決をしたいと思っています。
5月17日、札幌、仙台、東京の3地裁で提訴を行い、本日は、原告(仙台の方は原告のお姉さん)が、一堂に会しています。国会の中で被害を訴え、早期の謝罪と補償、特に謝罪がなければ補償だけあっても駄目だという、強い思いを訴えるため、当事者の方も全国から集まってきたのです。当事者の声を、なんとか国会に届けたい。いらっしゃってくださっている国会議員の方も、ぜひお聞きとどめていただきたく存じます。
2.当事者の発言
(1)当事者:小島喜久夫さん(札幌)
手術の時、私は、精神病院に連れていかれました。精神病院で診察もせずに麻酔を打って、寝て、気づいたら(病院の)独房なんですよ。そこで3か月くらい経ってから、「小島さん、優生手術」と言われたんです。「なんで?」と聞いたのですが、「あなたは精神分裂だし、障がい者だし、そういう子供が生まれたら困る」と言われました。私は大変がっくりきて、泣いてしまいました。
手術は5人くらいずつ、順番でされました。拒否すれば注射を打たれたり、独房に入れられたり、大変な目に合うのです。私は怖くて、観念して、優生手術を受けましたが、もう子供ができないんだと思って涙が出ました。
その時も、「誰が悪いのか?」とは考えていましたが、当時は19才で子供だったから、病院が悪いのだと思っていました。しかし、大きくなってからわかったのですが、国が悪いのです。国がそういうことを指示した、ということに、私は怒りを持っています。
私は障がい者だし、精神分裂病という名前をつけられて、優生手術を受けさせられました。自分の子供も欲しかったし、皆と一緒に動物園などに行くときなど、子供ができなくて残念だと強く思います。泣いてしまったこともあります。
それでも長い間、妻には言えませんでした。ですが、今年の1月、宮城県の人が優生手術の裁判を起こしたとニュースになったので、自分も立ち上がってやろうと思いました。妻に言ったら「お父さん頑張って」と言われたので、思い切って弁護士の先生に電話をしました。これから、頑張って戦っていきたいと思います。
中江病院という精神科で、10人くらい同じことをされた人がいます。出て来れない人もいると思って、実名を出しました。実名を出せば、みんな出てきてくれるのではないかと思いました。
(新里弁護士:北海道は、彼が声をあげたことで、他のところでも原告になる人が出てきてくれて、6,7月くらいに提訴することになっています。僕らは小島さんと一緒に頑張っていきたいと思っています。)
(2)当事者家族:佐藤みちこさん(宮城)
私は、1月30日に提訴した佐藤ゆみ(仮)の義姉です。
義妹は、中学3年生の12月に手術を受けました。遺伝性精神薄弱、ということだったのですが、義妹の知的障害は生後1年位の時に行われた手術の麻酔の後遺症です。遺伝性ではないのに、遺伝性精神薄弱ということにして、強制的に手術されてしまった、その事実こそが、旧優生保護法の最大の過ちと思います。
義妹には22,3の頃、縁談の話もあったのです、ですが、仲人さんに「子供が出来ないよう手術している」と伝えたら、断られてしまいました。
義妹は日常的に腹痛があり、30歳くらいのときに卵巣嚢腫で右卵巣摘出しています。優生手術による癒着が原因です。義妹は私が結婚した時は施設にいましたが、その後、同居しました。37年間生活を共にしていますが、私の3人の子供の世話をよくしてくれており、子供も、その孫も、義妹によくなついています。
2016年3月、国連女性差別撤廃委員会の勧告を受け、厚労省からヒアリングがありました。ヒアリングは計3回ありましたが、厚労省からの回答は「その当時は適法だった」「今後調査することはない」というものでした。
15才のまだ義務教育中の子供に不妊手術することが適法なら、その法律自体が間違っているのでは、適法だったとしても、15才の子供に不妊手術をする必要があるのか?いくら言っても改善されないと思ったので、提訴に至りました。
旧優生保護法は、障がい者を淘汰するための法律だったのでしょうか。提訴をきっかけに、旧優生保護法が人権侵害、幸福追求権、命の尊厳を根本から否定する法律だったことが明らかになってきました。マスコミの方も調べてくれたのですが、最年少は8歳の女の子、10歳の男の子に手術を行ったそうです。これも宮城県とのことです。これらは国の手続で行われたものです。
現在、強制不妊手術について明らかになってきていますが、これは過去の出来事では済まされないと思います。報道では提訴の話題が取り上げられ、また、最近では1973年に厚生省の衛生局長が「学問的に非常に問題がある」と事実上否定する発言をしていたことが日本医師会からの記録で判明しました。また、1988年、当時の学識経験者の証言として、「人権侵害がはなはだしい」とする厚生省に提出された報告書が放置されていた、ということも判明しました。
政府が20年以上主張してきたように、もし当時は合法だったというのなら、根拠となる真実を国として明らかにして欲しいです。過去の過ちと真摯に向き合い、謝罪してもらいたいです。この問題については、謝罪・補償を前提とした実態調査を行わない限り、けして解明されないと思うので、頑張ってほしいです。
私たちの社会が、障害があっても自分らしく生きられる、子どもを産める社会、自分で選べる社会であってほしいと望みます。
(3)当事者:北三郎さん(仮名)(東京)
私には、最愛の妻を白血病で失うまで、40年以上秘密にしていたことがありました。中学2年生の時に優生手術を受けて、子供を作れない体だったことです。
妻が亡くなる数日前、私は病室でその事実を打ち明け、心から謝罪しました。妻はこれまで「まだ子供ができないのか」と言われ、どれほどつらい思いをしてきたかと思います。ですが、妻は頷きながら私の話を聞いて、手術について何も言うことはなく、「私がいなくなっても、しっかりご飯を食べるのよ」と優しい言葉をかけてくれました。
今年の1月に仙台で提訴があったニュースを見て、自分ひとりの心にしまっておいた苦しさ、切なさがあふれてきました。優生手術によって苦しめ続けてきた、自分の人生を返して欲しい、それが無理ならせめて、事実を明らかにして間違った手術であったことを認めて欲しいです。その後、周りの人たちに支えられ、記録開示を求めましたが、私の手術記録は見つかっていません。
自分と同じように、手術を受けさせられた人は全国にたくさんいます。ですが、国にはごく一部の記録しか残ってしません。記録が残っていないから、手術に同意した親族を傷つけたくないから、手術を受けた事実を知られたくないから、などの理由で、声を上げられず一人で傷ついている人たちが、まだ全国にたくさんいます。
私が当時、施設に入っていた時、同じように手術を受けた人が4人いました。そのうち1人は女性です。その方々の思いも含めて、裁判を進めていきたいです。
提訴をきっかけにして、優生手術によって傷つけられた人、家族、医師、職員に真実を語って欲しいです。事実が明らかになり、傷が埋められることを望んでいます。
(4)当事者:飯塚淳子さん(仮名)(宮城)
私は中学1年までは普通に学校に行っていたのですが、3年の4月から精神薄弱者の入る小松島学園に入所させられ、卒業後、住込みのお手伝いとして職親に預けられました。その後、職親から虐待を受け、今でも心の傷が癒えません。
優生手術を受けさせられたのは、16歳の時でした。職親から何も告げられないまま、宮城県中央優生保護相談所付属診療所に連れていかれました。診療所までの途中の橋の下に木製のベンチがあるのですが、そこでおにぎりを食べさせられ、そのまま診療所に連れていかれました。診療所に行くと、父がいました。父は、民生委員と職親から「印鑑を押せ」としつこく責め立てられ、印鑑を押してしまったのです。優生保護法にしてやられたのです、と、後に父が手紙に書いていました。
手術後、父親に実家に連れて行かれたのですが、職親からは私が逃げたということにされ、両親からは「子供が産めない体だ」と言われ、そこから苦しみが始まりました。今の夫にも、結婚したときに優生手術の話をしたら、出て行ってしまいました。
不妊手術を受けたことにより、私の人生は変わってしまいました。どうして自分がこんな仕打ちを受けなければならないのか、不妊手術とは、優生保護法とはなんなのか、全てを知りたいと考え、平成9年頃から宮城県などに情報公開請求をしました。しかし、肝心な私が不妊手術を受けた年度のみ記録が破棄されたという回答でした。
平成27年6月23日、私は日弁連に対し人権救済申し立てをしました。そして、日弁連が旧優生保護法による不妊手術が人権侵害であるという意見書を発表しました。それが、大きな転機となりました。
その後、仙台で全国初の提訴に繋がりました。提訴後の定例記者会見で、宮城県知事は、私が不妊手術を受けたことを認めました。ここまでの20年、手術を受けた時から56年に及ぶ道のりを考えると、非常に長かったとしか言いようがないです。それでも、ここからが新たな始まりと、気持ちを新たにしています。
次は、裁判で声を上げて、全国の被害者が次に続くようにしたいです。すべての被害者に対し国は早急に謝罪し、事実を明らかにし、適切な補償をすることを強く望みます。
最後に、被害者の多くは高齢者、すでに70歳を超えています。私はがんにもかかっており、もはや待ったなしの状況です。
裁判所に対しては、とにかく私たち被害者の声を真摯に、誠実に聞いていただき、本質を見極め、公正な審理をしてほしいと望みます。
3.国会議員の皆様からのご挨拶
(1)自由民主党 衆議院議員 中村裕之先生
私は、北海道で10年ほど地元の議員を務めていた時に、ハンセン病の施設を視察しました。ハンセン病については、当時、劣悪な環境に隔離されていた方々がおり、そのことについての国会、政府の不作為責任が裁判所で認められたという経緯がありました。今回、旧優生保護法による不妊手術という実態が、3つの裁判が提訴されることによって明らかになってきました。これは大変な人権侵害だと、憤りを感じます。
地元の札幌の小島さんも実名で提訴されたということで、私も国会議員のひとりとして、しっかりと対応しなければならないという思いです。よろしくお願いします。
(2)共産党 衆議院議員 高橋千鶴子先生
私は、2015年の6月に新里先生が呼びかけて、宮城の飯塚さんが国会に来てくれた時の集会に参加しました。現在、福島みずほさんたちと一緒に議員連盟の活動をしています。
この問題については、なんでこれまで国会で話題にならなかったのか、何故知らなかったのか、ということがとても悔しいです。ここまでみんなで議論してきて、国会が取り上げてこなかったことが一番問題であるということを確認しました。時間はかかってしまったけれど、国による謝罪と補償を求めるための議員立法を作るため、一緒に頑張っていきたいです。よろしくお願いします。
(3)立憲民主党 衆議院議員 岡本章子先生
私は、宮城県仙台市からの議員です。この問題に関してはこれまでの飯塚さんの努力があり、佐藤さん、北さん、と続き今なお、たくさんの声上がっ てきています。
現在、超党派議員連盟が立ち上がったところです。私たちも、実態調査、謝罪、補償を勝ち取るまで、皆さんと一緒に頑張っていきます。
今後も、しっかりと支えていただき、苦しんでいる人に寄り添っていきたいと思います。
(4)社民党 参議院議員 福島みずほ先生
今回の件について、当事者の方に心からの敬意と連帯を示します。岡本さんからの話にもありましたが、国会で議員連盟が立ち上がりました。会長は尾辻先生、事務局長は私、事務局次長が岡本さん、初鹿さんです。
来年、参議院は半分改選期があるので、通常国会に早めに、謝罪と補償の入った法案を出したいと思っています。超党派でPTを立ち上げ、精力的に法案策定作業をやっていきたいので、国会の動きを応援してください。私たちは、裁判と連携しながら、いい流れを作っていきたいと思っています。
先ほどの飯塚さんは、20年前からずっと発言していました。障がい者団体が勧告を引出し、私も国会で質問し、人権救済申立などを経て、提訴に至りました。現在、ろうあ連盟も実態を調査しており、たくさんの人たちが声を上げ始めています。
また、1970年代にも厚労省の中で問題提起があったこと、なぜこの法律が1996年まで残り続けたのか、調査していきたいと思います。
優生保護法により、基本的人権が制限された事実があります。そして、今でも差別や偏見は有ります。私たちは優生思想を一緒に乗り越え、共に生きられる社会を作れるよう、頑張りたいです。法律を作り、謝罪、補償をし、過去の検証を行い、優生思想を乗り越えた、違う未来を一緒に作りたいと思っています。
4.今後についての討論での発言
(1)青木弁護士(明石市職員)
この問題については、明石市としても興味・関心があります。私は市職員であると同時に弁護士でもあるので、地域の中から被害者がいないか、できることがないか、行政機関として模索しているところです。
現在、電話相談というかたちで、被害状況の掘り起こしをしていると思いますが、なかなか電話で相談をするということが難しい人たちもいます。実態調査をするにはどうしたらいいか、と考え始めているところです。
何ができるかはまだわからない部分もありますが、基礎自治体としてできることを考えながら、意見交換をさせていただきたいです。
(2)山口さん(全日本ろうあ連盟 福祉対策部長)
先日、集会でもうかがったが、この法律は知的障がい者のためにできたという話があったが、実際には知的障がい者のみならず、なぜ聴覚障害者も含まれていたのか、府立ができたときの状況・背景がわからず、知る必要があると思います。
法律制定時の新聞などを見ると、障がい者は必要ない、不要な命だというようなことが書かれていました。なぜ、そのような言葉が使われていたのか。差別は今なお残っており、国は口先だけで「差別のない社会をつくる」と言っているが、それを実現するのであれば、何故法律ができたのか調査し、お詫びをするところから始まると思います。強制不妊手術を受けた人が長い間苦しんできて、疲れ果てて亡くなった方もいる、そういう人たちにどうするのか。本当に悪いと思っているのであれば、向き合って謝罪すべきです。
(3)佐藤みちこさん(当事者家族)
本人を守ってきた家族として感じますが、これからも障がい者への偏見はなくならないと思います。そんな社会の中で、お互いの気持ちを尊重しながら生きていかなければならない状況は続いていくのです。
知的障がい者は守る家、守る社会がなければ生きていけません。だから私は声をあげました。ネット等で義理の姉がどうこうという人もいるけれど、私は私だからこそ言えることもあると考えています。私は家族として、頑張っていきたいと思います。
(4)瀬山さん(優生手術に対する謝罪を求める会)
先日のNHKの番組を見た人もいると思いますが、優生保護法の法律の範囲を超えて、子宮摘出が行われてきた事実や、優生保護法がなくなった後も強制的な不妊手術が行われている現実があります。このような問題の広がりに、ぜひ裁判を通じてや、立法の動きの中でも目を向け続けて欲しいと思います。
優生保護法にすら基づかない子宮摘出については、すでに1970年代から声をあげられてきたという流れもあります。これまでも、現在も、(施設に入る時に生理の介護が難しいので子宮摘出を強制されるなど)違法な手術が闇に葬られている可能性があります。
これら、法律や数字に表れていない人たちが、相談の中で声を上げてきたときに、行政が「法律の範囲外」ということではねつけるということがないようにしていただきたいです。
(5)立憲民主党 衆議院委員 初鹿明博先生
私は、超党派議連の事務局次長をしています。声を上げてくれた皆さんの勇気が多くの人たちを救うことになるので、我々も同じ方向を向いて、国会の中で解決策が導かれるよう頑張りたいです。
今回の法案策定については、与党の方も方向性が一致しており、何等かのかたちで法案の提出をする予定です。超党派議連としてはできるだけ広く、資料の有無のこだわらず、除斥期間にもとらわれずにしっかりと補償していくことが必要と思っています。
現在の我々でなくとも、過去の先輩たちが全会一致で法律を作ってしまい、問題が指摘された後も対策をとらずにきてしまったことを、国会として間違ったことをしてしまったという反省に立ち、立法府としてきちんと謝罪していくことが重要と思います。
引き続き、連帯させていただきたい。
5.閉会あいさつ(弁護団共同代表:西村弁護士)
今回、4人の原告から話を聞き、私たちは「どんなに大変なことが繰り広げられていたのか」ということと、「原告になれない、相談もできないでいる人たちの心の中」についてもっと、きちんと想像をしなければならないと感じました。
議員さんたちから、来年の夏くらいに一定の法案を提出されるという話もありました。きっと、そのニュースは今、悩んでいる人たちの耳に届いて勇気になるでしょう。国会で充実した議論ができるように、弁護士はさらに、地域での聞き取りなどを通して、国会議員のみなさんや原告の方々にも提供し、早期解決、真摯な謝罪に向けて取り組んでいく必要があります。
本件では、真摯な謝罪を、責任ある地位の方がしなければなりません。その上で、受けた被害の何十分の一、何百分の一かもしれないが、補償、救済をしていくことが大事です。
弁護団は地裁での提訴を継続していく予定で、北海道ではすでに追加訴訟の準備を行っています。
さきほど、ろうあの方がおっしゃっていましたが、北海道でもろうあの方の大変な被害状況を聞いています。仮に原告とならなくても、被害状況を語っていくことには非常に意味があります。国の責任者の謝罪においても、新たな情報源となります。ろうあの方々も、そのように被害者の人に伝えてください。
本日はどうもありがとうございました。弁護団は引き続き力を尽くしてまいりますので、ご協力お願いします。